INTERVIEW

中村 恩恵さんインタビュー

NDTに1991年から1999年まで9年間在籍し、ソル・レオン、ポール・ライトフットと共にクリエイションもされた中村恩恵さんにインタビューを行いました。

(c)大河内禎

1988年ローザンヌ国際バレエコンクールでプロフェッショナル賞受賞。フランスのユース・バレエ団、アヴィニヨンのオペラ座バレエ団、モナコ公国モンテカルロ・バレエ団などで活躍後、NDTには1991年から1999年まで9年間在籍し、イリ・キリアンが芸術監督時代のトップダンサーとして活躍。2007年、日本に活動拠点を移してからは振付家・ダンサーと して幅広く活躍。現在はコレオグラフィック・センター設立に向けて準備中。ソル&ポール、そして貴重なNDTの草創期など貴重なエピソードを聞いた。

インタビュー・編集・文:乗越たかお

◼️ソル・レオン、ポール・ライトフットの作品について
-今回来日する『Shoot the Moon』『Singulière Odyssée』の振付家、ソル・レオン&ポール・ライトフットは同年代ですか?

「私と年はそんなに違いませんが、私が若手カンパニーのNDT2に入った時、彼らはもうメインカンパニーのNDT1のダンサーで、NDT2のために作品を作りはじめていました。ベテランダンサー兼若手振付家として、私より先のキャリアを行っている感じでしたね。ポールはロンドンのロイヤルバレエ学校から若くしてNDT2に入ったエリートで、本当に才能豊かでした」


-当時はどのような作風でしたか?

「初期作品の方が抽象性が高かったように思います。その頃は細かい、意外と神経質でアイソレート(身体の各部分を分割して動かすような動き)の効いた動きが多かったですね。ただポール自身はとても背が高い人で、キリアン作品を踊る時は優美で大きい役を踊るんです。ダンサーとして見せる身体と、振付家として創る動きが正反対なので、じつに興味深かったですね。そのせいかポールは次第に自分の作品を踊らなくなり、さらに細かくシャープになっていきました」


-彼らとクリエイションをしたこともありますか?

「私はNDT2に入団した1年目から、ポールの『Step Lightly』 (NDT2, 1991) を踊りました。今もバレエ学校で時々上演されるような初期代表作ですが、よく指導をしてもらいました。NDTにはダンサーが作品を作って発表できる「ワークショップ」というイベントがあったんですが、ポールの『SH-BOOM!』(NDT2, 1994)というコミカルな作品にも出演しました」


-「ワークショップ」のように、NDTは若い人が作品を作ることを推奨していたんですね。

「そうですね。年に1回、イースターの夜に行われていました。NDT1から3まで全員が対象なので機会は均等でフェアなのですが、ものすごい数になります。制作から『今年は1人3分半までにしてください!』といわれると『私たちは2人共同で作るから、7分にしてもいいですか?』と必死です。評論家や劇場関係者も大勢来て、実際にそこから振付家としてデビューしていく人も多いので、真剣勝負なんですよ。他のカンパニーとの仕事で知り合った音楽家仲間や衣装のデザイナーも出入りして、とてもクリエイティブな空間でしたね」
中村さんがNDTのワークショップで初めてつくった作品
-しかし基本的にはプライベートな時間で作らなければいけないんですよね。

「はい。しかも当時NDTには『11時間ルール』があって、前の仕事の終了時から11時間経たないと次の仕事をさせてはいけないんです。ダンサーにしっかりとした睡眠や食事などの時間を確保するためですが、クリエイションが間に合わないとダンサーに頼み込んでツアーの合間や休みに出てきてもらうとか、すごくタフに動き回ってました」


-その頃は年間何本くらい新作を作っていたんですか?

「NDTとして年間9作品でした。一晩のプログラムで旧作と新作を取り混ぜて3〜4作品、いつも違う組み合わせになるようにしていました」


-今回上演するソル&ポールの『Shoot the Moon』と『Singulière Odyssée』は両方とも演劇的でありながら、動きが精密で密度が高いものです。しかもシャープで展開が早いですね。ふつう物語を伝える部分はゆっくりになりがちですが、そういうところもバリバリに踊っていますね。

「頭の回転速度が速い人なんだと思います。もともと綺麗でロマンティックな作品も多かったのですが、『Start to finish』(NDT1, 1996) のあたりから変わってきたのではないでしょうか。これはソルがメインを踊る作品なのですが、彼女が妊娠したときに私が彼女のパートを踊ることになったんです。ソルにとってすごく思い入れのある作品だったので、とても丁寧にコーチングをしてもらって、私にとっても心に残る作品ですね」


-『Singulière Odyssée』はNDT3創設の尽力をしたジェラール(Gérard Lemaître)さんへのオマージュでもあるそうですが、覚えていらっしゃいますか。

「はい。ジェラールさんは、NDTのキリアンさん以前からいる、一番の長老です。私がNDT2に入った頃はクラスを持っていました。NDT3で一番の固定メンバーで、常にカンパニー全体を見守るエンジェルのような方でした。来日もしていますよ。ハンス・ファン・マーネン『Old man and me』という作品で、若い女性(サビーヌ・クッペルベルグ)と初老の彼が、すごく切ない素敵な踊りを披露しています」


-信頼の厚い方だったようですね

「彼は全ての人の誕生日を覚えているんですよ。しかも私がNDTをやめても、誕生日には必ず電話してくれました。大きなカンパニーからフリーランスになると、突然切り離されたような喪失感に包まれてしまうんですが、そんなとき彼から誕生日に電話がかかってくると、本当に嬉しい。しかもそれは彼が亡くなるまで毎年続きました。多分それは私だけじゃなく、みんなにやってくれていると思います。ジェラールのことは、亡くなった後も、みんな自分の心に寄り添っている守護天使のように感じていると思います」


■NDTについて
-中村さんはNDTには1991年から1999年までの9年間在籍されましたね。当時のNDTの様子をうかがえますか。

「私が初めてNDTの名前を聞いたのは子供の頃だったんです。『オランダにNDTというすごいダンスカンパニーがある』と家で聞いたのが最初です。当時はインターネットもなく海外の情報は限られていましたが、私の父がバイオリンの製作をしていたり、クリスチャンホームだったため家で家庭集会を開いていたので、色々な分野の知識人や海外に在住の人などがよく遊びに来ていたんです」


-中村さんは1970年生まれ。NDTは1959年創立で、75年からイリ・キリアンが共同芸術監督、78年から芸術監督に就任ですから、ちょうどその頃の噂を聞いていたんですね。

「ただそれが『ダンサーが裸で踊る作品で有名らしい』というちょっと偏った情報で(笑)。でも『私がやっているバレエとは全くちがうダンスが、行ったこともない国にある。そこで踊るってどんな感じだろう』という気持ちと、『あと裸か……』というのが子ども心に妙に刺さったんですよね(笑)。
実際にNDTに入ってみても、当時は裸で踊るのがアイデンティティのひとつなのかなとも思いましたけどね。オランダはとてもオープンな国でヌーディストビーチなども普通にありますから。そういえば面白いことがありました。NDTは本番後の帰りが遅くなる時にはタクシーを呼んでくれるんですが、地方公演で深夜2時頃にタクシーで帰ることになったんです。するとタクシーの運転手が「こんなに遅くになるなんて、なんの仕事してるの?」と聞いてくるので「私、踊りをやってるんです」って答えました。するとちょっと勘違いしたようで、「そうなんだ。裸で踊るの? 僕も見てみたいなぁ」って言われたんです(笑)」


-あながち間違いでもないという(笑)

「そうなんです(笑)。とくに私ともう1人、『Bella Figura』などのトップレスで踊る役がつきやすい女性ダンサーがいました。オハッド・ナハリンがNDTに振り付けたトップレスで踊る作品でも、2人が抜擢されたので、オハッドに『どうして私たちは裸になる役に選ばれたんですか?』と聞きにいったんです。するとオハッドは『君たちは背中が……』」


-『美しいから』?

「いいえ。『君たちは背中が、大きいからだよ」って(笑)」


-それはひどい(笑)。まあオハッドは素直に答える人でもないですから。

「ただ裸がNDTのアイデンティティのひとつじゃないか、というのは、NDTの成り立ちにも関係しているんです。NDTは元々、国立劇場にいた16 人のダンサー達が『自分たちが踊りたい作品を、自分たちで選んで踊れるカンパニーを創ろう!』と一念発起して、恵まれた待遇を捨て、本当に貧しい、小さいところから立ち上げたカンパニーなんです。そういう『お金がなかったら裸でも踊ってやる!』みたいな反骨の気概があるんですよね。自分の権利を主張して勝ち取るけども、責任も自己責任として引き受ける。そこを見据えて主張していくことを、私もNDTですごく学びましたね。それまで私はNDTの前はモナコの王立バレエ団など、整えられた環境を享受するのが当たり前だと思っていましたから」
イリ・キリアン振付『Bella Figura』。左が中村さん。
©Joris Jan Bos
-それはたしかにアーティストとしてのあり方を問い直されますね。

「朝に『ダンサーズ・ミーティング』というのがあったんですよ。バレエ団の方針とか、どういう種類の保険に入りたいとか、そういう様々なことをダンサーで話し合うんです。その結果をまとめて、ダンサー達の総意として経営陣に交渉するんです。そこが他のカンパニーとは違いましたね。ダンサーが自分の踊る環境を自分たちで考え、下調べもするし交渉もする。しかもNDTダンサー達のほとんどは外国人ですから、カンパニー任せになりがちです。でも当時のNDTでは、自分たちがダンスカンパニーを通じて社会につながっていて、自分たちの環境の向上が社会の向上につながるのだと思っていました。アーティストは浮世離れした人の集まりではなく、社会の構成メンバーなのだという意識がすごく強かった。だからオランダに帰化する人も多かったですね。このあたり、今の日本の現状と大きく異なるところですが……」


-ダンサーが自分の環境を変えるために積極的に動き、周囲に働きかけていくような意識を持つようにカンパニーが導くとは、素晴らしいですね。それはNDTに余力があったからでしょうか。

「それが全く逆なんですよ。私がいた頃は経営難というか、大変な時代でした。観客がW杯や海に出かけて劇場に来なくなってしまって、オランダ国内でも観客が少なすぎて公演をキャンセルしなくてはならないくらいでした」


-キリアン時代のNDTが経営難だったとは、本当ですか。

「本当です。経営陣に銀行の建て直しで有名な人が入って、すごくシビアな経営再建を経て、結果的にまた連日満員になるようになりました。別に演目は変わっていないんですよ。でも芸術に興味がない人たちがシビアな目でザバザバと改革して、そのおかげで私達はまた作品を作って存続できるようになったわけです。経営陣の力とはこんなに強いものかとショックとともに学びました。もちろんアーティストとして、そしてディレクターとしてキリアンさんは戦っていたし、だからこそ芸術的なクオリティは守られていたわけですけどね」


-もう世界的な評価は固まっていた時期だし、余裕でやっていたと思ってました。

「いえいえ。パリやNYで公演しても、大げさでなく評判がカンパニーの存続に直結する危機感にピリピリしていました。『NDT創設時は、建物と建物の間に屋根を渡してスタジオにしたので、真ん中に木が生えていた』というくらい、本当に安いところから始まったカンパニーだったそうです。カンパニーを2分割して、Aチームがツアーでお金を稼いでいる間に、Bチームが新しいプログラムを作って、交互にツアーへ行く。公演の利益で次の公演を作るという自転車操業だった。だからこそ誰にも頼らない、自分たちの踊ったお金を次の作品につなげていくんだというやり方でやってきたのです。しかも1日2回公演は普通です。汗ビッショリになって一息ついていると第2公演の時間になり、汗だらけの衣装を着て出て行く、というような感じでした」
NDT1パリツアーでの集合写真
©COLETTE MASSON / AGENCE ENGUERAND
-大きいカンパニーのダンサーは条件が合わなければ他に移るのも普通だと思いますが、NDTはダンサーが一丸となって立ち向かうのが面白いですね。それがファミリー的な結束を生むんですね。

「キリアンさんはミーティングのときに『ディレクターの下にダンサーがいるような縦の構造は前世代のものだ。NDTは同じ船に乗って、みんなで旅をしている、そういうカンパニーにしたいんだ』と、常に言われていましたね」


-中村さんは、ご自身も若いアーティストの『母港』となるような、コレオグラフィック・センターを準備中だそうですね。

「私が若くて様々な迷いを持っていたときに、NDTの仲間やカンパニーや劇場など色々な人に支えていただいたので、そういう場所を日本でも創りたいですね」
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